あれは留学してまだ間もないとき、まだ10代だった頃、とある日本人夫婦に出会いました。

6年間の留学生活を最後まで頑張ることができたのは、その日本人夫婦のおかげでした。

今日はそんな日本人夫婦と出会ったときの話です。

ポートランド郊外、シアトル郊外、バンクーバー・キャマスWAにて巣鴨アドバンススクール(学習塾)とビーバートンにて巣鴨キッズ(幼稚園)を運営しています、みとのやです。

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↑ は留学初期のころの単語帳ですね。ガムシャラに勉強していた時期。

アメリカの大学に留学して、まだ間もないとき。

毎日のように辞書との格闘。

とにかく毎日が嵐のように過ぎていきました。

週末も教科書の分からない単語に赤線をひいては単語帳を作る毎日。

赤線ばかりの教科書を見てはため息をついてました。

クラスでの議論も全くついていけず、自信をうしなう日々。

そんな私は友人からの誘いを断っては、一人図書館にこもり勉強に励んでいました。

その後も思ったように英語力も上がらず。

私は一人で焦っていました。

そんな孤独感と緊張感が続いた数ヵ月。

とある日本人夫婦に会いました。

アメリカ生活の余生をローズバーグという小さな町で過ごしているおばちゃんとおじちゃんでした。

「ちゃんと食べてるの?」と、まるで自分の子どもを心配するかのように、温かい言葉をかけてくれました。

2度目にお会いした時、その夫婦の家に招かれました。

楽しい日本語での会話。

でてきたのはグリルで焼かれた鮭の塩焼きでした。

久しぶりの日本食。久しぶりの魚料理。

めっちゃおいしそう!と。

大学のカフェテリアかインスタントラーメンばかり食べていた私。

ゴクリと唾を飲み込みました。

両手で箸を手にし、右手にもちかえ、鮭をほぐしました。

そしてその鮭を口にしたその時。

口の中、そして胸の中があたたかくなり、おばちゃんとおじちゃんのやさしさが身にしみてきました。

同時に、今まで一人で抱えていたつらさ、孤独さがあふれだしました。

私はそれ以上、何も言えなくなってしまいました。

歯をくいしばって、こみあげてくる涙をなんとか抑えていました。

泣いちゃダメだ。泣いちゃ、と心で食い止めていました。

しかし、おばちゃんはそんな私の心を察したのでしょう。

ゆっくりと優しい声で。

「一人でつらかったわね。いいのよ。泣きたいときは泣けばいいんだから」と。

すると、ダムが決壊したかのようにそれまでこらえていた涙が流れ落ちました。

鼻水も流れてきました。

おいしいサケが、涙と鼻水で更にしょっぱくなってしまったのを覚えています。

おばちゃんは、ティッシュ箱ごと渡してくれました。

私は何枚のティッシュを使ったのでしょうか。

「うんうん、泣きたい時は泣きなさい」

あの時からでした。なんだか肩の力がぬけたのは。

それまでは、頑張らなくちゃ!と前のめりになっていた自分。

でも、たくさんの涙と鼻水を流し、肩の力が抜けて、自然体で何とかなるよ、となっていった自分。

あのおばちゃんおじちゃんの温かい心に触れていなければ、私の留学生活も最後まで続かなかったかもしれません。

人間というのは、そんな強いものではないと思っています。

どんなに強そうに見える大企業の創設者だって、どこかの大統領だって、意外と一人だけでは弱いもの。

生まれた時から誰かが支えてくれて。

誰かが支えてくれたから、今の自分がいる。

塾の先生をやっていて、こんなこというのも何ですが、算数や英語ができなくたって死にはしません。

バイリンガルだろうがモノリンガルだろうが。そんなものはただのツールです。

志望校に合格しなくたって死にはしませんし、人生終わりではありません。

でも、周りへの感謝の気持ちがなくなった時、その人の人生は寂しいものです。

恵まれた境遇のように周りから見えていたとしても、その人の心の中は寂しいものです。

生徒たちには、周りの人の温かさを感じられる人になってもらえたらと願っています。

でもそのためには、周りの大人があたたかく子供たちと接する必要があります。

おばちゃん、おじちゃんにしてもらったように、私も周りの人たちを大事にしていければと思ってます。

おばちゃんは今頃どこでなにしてるのか。

今もおばちゃんの声が聞こえてくる気がします。

今もどこかで誰かにシャケの塩焼きを出してるような気がするんですよね。

「泣きたい時は泣きなさい」って言いながら。

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